〜フランス軍すごかったんだよ(ヨーロッパのほとんどを影響下に置いた)〜
●フランスの武器生産能力がヨーロッパで2位だった。
●国民皆兵で士気が高いから、昼夜問わず異常なまでの行軍スピードで進軍できる。分散進撃させて要所で兵力を集中させるなど、その兵力移動速度は各国を唖然とさせた。
各個撃破のチャンスだと思って進んできた各国の軍勢を、フランス軍は兵力を集中させて撃破している。
●大砲ごと万単位の軍勢を1日に徒歩で20〜25km移動させてる。☚丁寧に構築された兵站システムのおかげ。
●ナポレオンの勝率9割超え☚国民的大英雄になる人気要素。カリスマたっぷり。
●ナポレオン個人がありえないほどに多方向の分野での天才。
●ナポレオンの元に優秀な部下達が集まった。例 「不敗のダヴー」 倍以上の敵軍を何度も粉砕し生涯全勝。
☟ で?どうなったの? ●ナポレオン、軍事力に過度に頼りすぎて、あちこちで戦争しまくって優秀な将兵を喪失して、フランス軍消耗。
皆、ナポレオンに頼りすぎていたため、各地で戦線ができるとナポレオン1人じゃ対応できないという欠点が出来た。
兵士の士気も落ち、ロシア遠征で軍団丸ごと消滅。
反ナポレオン連合との戦争イベントなどの果てに、絶海の孤島に流されて病死。
フランス軍人の戦死数 合計約78万人
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ナポレオンの場合はタレーランがきれいさっぱり後始末してくれたけど、ラインハルトの方はなあ…
返信削除http://ja.wikipedia.org/wiki/シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール#.E7.94.9F.E6.B6.AF
削除1803年、ナポレオンの指示でサントル地方のヴァランセ城 (fr) を購入・所有し、外賓の接待に使用した。ナポレオンの皇帝就任後は侍従長も兼ねたが、ヨーロッパ列強の勢力均衡を図ろうとする彼の考えと、ナポレオンのヨーロッパ支配の拡大戦略とは相容れず、1807年に外相を辞任。帝国顕官(フランス語版)副大選挙人、元老院議員に就くも、ジョゼフ・フーシェとともにナポレオンの失脚を計画した。
1814年にナポレオンが失脚すると、連合国に請われて臨時政府の代表となり、ルイ18世の即位後は再びフランスの外務大臣となり、ウィーン会議に出席した。この会議では、正統主義を唱えて列強の利害対立を利用し、巧みな外交手腕でフランスの国益を守った。1815年にナポレオンの百日天下のあと、一時首相となったが、過激王党派にフランス革命期の政治活動を非難され失脚した。
1830年の7月革命ではルイ・フィリップの即位に貢献し、この年から1834年までイギリス大使を勤めた。1838年、肺壊疽により死亡。
(´・ω・`)人材に恵まれておるのぅ。
ラインハルトはチートになる為の下地があったからこそチートになれた。
返信削除ナポレオンは自分でチートの下地を作ってチートになったという印象。
有能差的にもナポレオンには勝ててない気がする。長生きできず次への引継ぎも殆ど出来てないのもマイナス。
ラインハルト(´・ω・`)ゆ、有能なヒルダ皇后がいるから大丈夫なのだ。
削除貴族社会で皇后一人で貴族たちが言うこと聞いてくれる気がしない・・・
削除周りから男の皇帝が必要って迫られて再婚させられるor皇后から下ろされて権限取られる未来が見える
ナポレオンは自分の強みがどこにあるかを理解しきっていなかったようにも思う。
返信削除もちろん本人の天才的戦術才能もそうなんだけど、それと同じくらい大事なのは自分の戦術を忠実に齟齬無くこなしてくれる子飼いの将校たちがいたからこそ。
この辺り、完全に意識して集めたわけでなさそうなのがのちのちの、戦場ごとに負荷をかけすぎて一人また一人とその将校たちを失っていって、それが元で敗北につながったというのが、ね。
ロシア遠征の失敗もそらあ冬将軍もそうだけど、将校欠損による統制の欠如も一因でございます。
まあ、あくまで手足として有能だった、なので結局参謀団を作り上げてナポたんの天才に対抗した大陸軍に負けてしまったわけですが。
ある意味最後の天才的「将軍」、だったのかも。 以降は「有能な将帥」しかいなくなるし。
(´・ω・`)まさにナポレオンの心境は、身体が複数欲しい状態。
削除ナポレオン(´・ω・`)身体が複数欲しい。戦争しすぎて身体が足りん。
参謀団(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)俺達の方が有利やで?頭の良いやつ集めて戦争やってるからな!
そもそも、ナポレオンの分進合撃って、時間通りに予定の地点に兵力を連れてきてくれる有能な将軍がいることが前提だからね。この、「時間通りに予定の地点に兵力を連れてきてくれる」ってことが、いかに難しいことか。
削除「余が真の栄光とするものは、軍事上の勝利ではなくこの民法典である」
実は結構内政チートの人でもある。