東アジアを漫画化(´・ω・`)>1001-1500記事>このページ(´・ω・`) |
←前のページ | 次のページ→ |
東アジアの歴史・現代ニュース【1336 韓国( ;∀;)安部に親書送っても無視される……日韓友好できん……←( ゚Д゚) |
|
←前のページ | 次のページ→ |
●●http://suliruku.blogspot.com/2019/10/blog-post_961.html 19 件のコメント : 匿名2019年10月29日 10:11 日韓友好はプランBでいこう、ギアーズオブウォー的に 返信 匿名2019年10月29日 10:26 その昔の鎌倉時代、元寇の前の日本は元・高麗の使者を4回連続無視して、二回目三回目の国書で返書はよ!とせっつかれても脅されても返書を送らなかったそうな… (送ってきたのは6回だけど2回は高麗と対馬で引き返した。日本に来た4回の使者のうち2人は高麗人) 返信 返信 (´・ω・`)パルメ2019年10月29日 11:37 (ノ゜ω゜)(ノ゜ω゜)よくわからないけど……外交下手だったとか……? (´・ω・`)歴史漫画でも、特にそんな酷い外交文書ではなかったようじゃしのう……なんで返書しなかったんじゃろ…… 匿名2019年10月29日 12:18 外交の上手下手以前に、日本には元と外交する気すらなかったって感じだと思う 6回(4回)全部スルーして、一応5回目の使者の時に日本からも使節団送ったけどこれはどうやら偵察目的だったようだし 過去の中国の王朝とは使節や留学生などの行き来があったから、大陸や外国と外交する気がないってわけではないだろうし、日本が親交があった中国の王朝・南宋は元寇の前にはまだ存在してる(第一次元寇の文永の役後に元に敗北、征服された)から、当時の日本にとっての大陸の王朝=南宋で元ではなかったのと、親交のあった南宋に気を遣ったのかも 南宋はその前から長く元と敵対しているから、日本が元と誼を通じることは南宋の敵と誼を通じることになるし、下手をすれば先に従属した高麗が元寇に参加させられているように、日本も南宋攻略へ参加させられる可能性もあるし 匿名2019年10月29日 19:27 鎌倉時代に知らんやつらが、お前ら弟なとか言ったら間違いなく戦争になる 来るならコイよ ぶっ殺す みたいな雰囲気な気がする 匿名2019年11月3日 13:39 元寇前の元から日本への外交文書は三通あって、一通目は文永5年(1268年)正月に2回目の使者が届けた有名な「大蒙古国皇帝奉書」、 つまりクビライ・カーンの手紙で、文面だけだと比較的穏健や友好的なように見えるけど、 手紙の最後で『以至用兵、夫孰所好、王其圖之(軍を動かす事になるのを誰が好むだろうか。日本の王はそれをよく考えるように)』と書かれてる。 これが軍事力を背景にした脅しではないのか、という見方もある(けど解釈はかなり意見がわかれてる)。 少なくとも幕府はこの一通目の国書読んだ時点で警戒したらしく、届いた年の2月27日にはもう 『蒙古人が凶心を挿し挟んで日本を伺っていて、近日には国書持った使者を送ってきた。用心すべき』という御触れを讃岐の御家人に通達してる。 また1269年に4回目の使者が届けた二通目の中書省からの書では 『もしなおも国の守りが固いからと、我が方に何もせず遠い国だからと来ることもないなら、 天威は激怒し、将軍に命じて軍を出し、万の戦船をもって直ちに王城を制圧する、そうなったら後悔をするだろう。』 とはっきりと侵略の文言が入ってるし、朝廷がこれに出すために出した返書案でもこの点を猛烈に批判してる(結局この返書は出さなかった)。 匿名2019年11月3日 13:41 また一通目の文中で高麗について『朕が即位した当初に、高麗の無辜の民が長い戦いに疲弊していたのを、 命令して戦いを止めさせて、その領土を還し、老人や子供を帰らせた。 高麗の君臣は朕に感謝し敬って来朝した。義としては君臣と言えども、父子の如く親しい関係にある。』と、 二通目の文中では『高麗に至っては、臣属以来、ただ毎年ごとに蒙古皇帝に拝謁して土産物を受け取り、その国の政府と民は安堵している』と、 高麗との関係について美化した書き方して、『日本も恭順すれば高麗のように処遇する』と続けてるけど、 当時の高麗は蒙古から物も人も要求されまくったのが疲弊の一因で、この後も日本への元寇のために多大な造船や物資、 人間も多数の兵士と、さらに弘安の役の時には兵士の妻になる女性まで要求されて、 女性が連れていかれた時には『泣き声が道路に満ちていた』とまで高麗史節要に書かれてたりするので、 元と高麗との関係は手紙に書かれていたような、慈悲深いクビライとそれに感謝する高麗の民、なんてものじゃなかったりと、 クビライの穏健な、友好的な文面はそのまま受け取れない。 高麗史にはこの後にも、元からの人間含めた要求や、宮廷にまで介入されることに 苦しんだり嘆いたりの記述がいくつもあって、元の支配はとても『ただ皇帝に拝謁すれば政府も民も安堵する』ようなものではなくて、 恭順すれば日本も『高麗のように』なっていたのなら、拒絶したのは正解だったと思う。 匿名2019年11月3日 18:15 元寇の原因には諸説あるけど、元と戦争中だった南宋包囲網の一貫として日本からも南宋を攻めさせるつもりだったという説がある。 また日本と南宋が手を組むと思っていたのか、日宋交易を妨害するつもりだったのか、元では日本を攻めるために通ると言って高麗に軍を送り併合して、高麗を直接統治して日本と南宋を分断するという案が出たこともあった。 これを見ても、もし日本が従っていれば南宋攻めに無関係ではいられなかっただろうし、一旦従えばその時点では併合されなくても、元の都合でどうなるかわからなかったし、その高麗との関係を自画自賛してる点で、外交文書の表面上の話を鵜呑みにもできない。 匿名2019年11月5日 17:38 >鎌倉時代に知らんやつらが、お前ら弟なとか言ったら まあ高麗との関係は父子+恭順すれば日本も高麗のように遇するって、お前ら息子な、っていうようなもんだしな それまで付き合いがないよう知らん国からそんなこと言われてもなあ 匿名2019年11月8日 12:30 高麗史によれば、元宗9年、1268年の時点でフビライ・ハーンは「朕は日本と宋を討つのみを欲す」「或いは南宋、或いは日本、命に逆らうなら征討す」と言及してる(高麗史)。 フビライの書を持ってきた使者の潘阜ら(高麗人)は1268年正月に九州の大宰府に到着、7月18日に高麗に帰国して、高麗から元までまた何十日か掛かるだろうから使者が日本の反応を元に知らせる前か後かはわからないけど、少なくとも使者の来日、帰還と同年にはもう元は日本との戦争を視野に入れていたことがわかる。 戦争せずに使者送るだけで従わせることができればその方がいいとは思っていただろうけど、従わなければ戦争。 国書でなんのかんのと並べても実際はこんなもん。 脅しと判断した日本の判断は、実際合っていたわけだ |
東アジアの歴史とニュース, ニュース,自作漫画, |
東アジア |
カウンター日別表示 |