白豪主義とアボリジニの悲劇[編集]
西洋人がオーストラリアを「発見」した段階では、50万人から100万人ほどのアボリジニがオーストラリア内に生活していた[7]。言語だけでも250、部族数に至っては、700を超えていた[要出典]。
しかし、1788年よりイギリスによる植民地化によって、初期イギリス移民の多くを占めた流刑囚はスポーツハンティングとして多くのアボリジニを殺害した[8]。「今日はアボリジニ狩りにいって17匹をやった」と記された日記がサウスウエールズ州の図書館に残されている[9]。
1803年にはタスマニアへの植民が始まる。入植当時3000〜7000人の人口であったが、1830年までには約300にまで減少した[10]。虐殺の手段は、同じくスポーツハンティングや毒殺、組織的なアボリジニー襲撃隊も編成されたという[11]。数千の集団を離島に置き去りにして餓死させたり、水場に毒を流したりするといったことなども行われた[12]。
また、1828年には開拓地に入り込むアボリジニを、イギリス人兵士が自由に捕獲・殺害する権利を与える法律が施行された。捕らえられたアボリジニ達は、ブルーニー島のキャンプに収容され、食糧事情が悪かった事や病気が流行した事から、多くの死者が出た。
これによりアボリジニ人口は90%以上減少し、ヴィクトリアとニューサウスウェールズのアボリジナルの人口は、10分の1以下になった[13]。さらに1876年には、タスマニア・アボリジナル最後の生存者である女性のトルガニニが死亡して、多い時期で約3万7千人ほどいた純血のタスマニアン・アボリジニが絶滅した[14]。
特に東海岸沿岸部等の植物相の豊かな地域に居住していたアボリジニは、当初はイギリス移民との平和関係を保っていたものの、後の保護政策に名を借りた強制的な移住もあり、この入植者達によるハンティングという惨劇を語り継ぐ者をも残さず姿を消している。
20世紀前半には、アボリジナルは絶滅寸前の人種(死にゆく人種、死にゆく民族)として分類されるようになる[15]。この死に行く民族という規定は、1937年まで続く。死に行く民族という規定が廃止されると、今度は積極的に白人社会に同化させる方針が強化される[16]。
1920年頃には、入植当初50-100万人いたアボリジナル人口は約7万人にまで減少していた[17]。同1920年、時のオーストラリア政府は先住民族の保護政策を始め、彼等を白人の影響の濃い地域から外れた保護区域に移住させたが、これはむしろ人種隔離政策的な性質があったようである。元々オーストラリアに移住した白人は、犯罪者が大半を占めていた。そして、徹底的な人種差別政策、いわゆる白豪主義をもって、移民の制限及びアボリジニへの弾圧政策を続けた。当時のオーストラリア白人には、世界の他の地域に居住する白人に較べて犯罪率が高く、勤勉性に欠ける傾向がみられる、という報告もある[要出典]。
また、1869年から公式的には1969年までの間、アボリジニの子供や混血児(ハーフ・カーストと呼ばれ売春婦として利用される事があった)[18]を親元から引き離し白人家庭や寄宿舎で養育するという政策が行なわれた。様々な州法などにより、アボリジニの親権は悉く否定され、アボリジニの子供も「進んだ文化」の元で立派に育てられるべきという考え方に基づくものと建前上は定義されていたが、実際はアボリジニの文化を絶やしアボリジニの存在自体を消滅させるのが目的であった。政府や教会が主導して行なわれたこの政策で子供のおよそ1割が連れ去られ、彼らの行き先は実際には白人家庭でも寄宿舎でもなく、強制収容所や孤児院などの隔離施設であった。そして、隔離施設から保護を放棄されたり、虐待を受けたり、遺棄された者も少なくはなかった。結果として彼らからアボリジニとしてのアイデンティティを喪失させることとなった。彼らは"Stolen
Generation"(盗まれた世代)、または"Stolen Children"
(盗まれた子供達)と呼ばれている。尚、「盗まれた世代」の政策が実際に徹底されて行われていたか、またどの程度の規模だったのかは、未だにわかっていない。1920年から1930年の間だけで、混血も含む10万人のアボリジニの児童が親元から引き離されて、故郷から数百キロ、時に千キロ以上も離れた、監獄とも言える劣悪な強制収容所に送り込まれた[19]。
無論、アボリジニも全くの無抵抗だったわけではなかった。これらの政策に対してのデモや暴動を起こすものも少なくなかったが、結果としては白人たちの敵愾心を煽るにとどまった。逮捕者の中には、まともな裁判を受けることなく、そのまま死刑に処せられた者もいたほどである[要出典]。
一方、不毛な乾燥地域である内陸部のアボリジニは周辺の厳しい自然環境に守られながらどうにか固有文化を維持し続けた。今日でもアボリジニ文化の史跡は沿岸部都市より隔絶された内陸地に多く残る。近代のアボリジニ激減と、文字文化を持たなかった事から文化的痕跡を残さず消滅した部族も多く、彼等の言語や文化の系統を調査する試みは進んでいない。音声的に完全に失われた言語も多く、それらの民俗学的調査は「既に大半のピースが失われたパズル」に准えられている。
その後、アボリジナル人口は徐々に回復し、1996年には約35万人になった。これはオーストラリア総人口の約2%である[2
http://ja.wikipedia.org/wiki/アボリジニ#.E7.94.9F.E6.B4.BB.E5.8F.B2 |
クズしかいないって、はっきりわかんだね。
返信削除(´・ω・`)upするのを忘れて、肝心の小説を書いた後にブログにupした有様でござる。
返信削除流刑囚といってもある程度の割合がジャガイモ飢饉で流民化したアイルランドの人だからその点は考慮してあげて…
返信削除あっ、でも最後のタスマニアン・アボリジニの男性を殺して剥製にして博物館に展示したのはいくらなんでもクズだと思いました(かなり後になって博物館で再開を果たした元恋人のトルガニニさんはその場で号泣したとか…)。
ああでも当時は進化論による優生学が流行っていたことも考慮してあげて。
これはもともとのダーウィンの進化論が「生物はその場の環境に適応したものが生き残る(適者生存)」だったのがいつの間にか「生物は“優れたもの”が進化して生き残り、“劣ったもの”は退化して滅びる」と曲解されたもので西欧による植民地支配の正当化に利用された他、オーストラリアではカンガルーやフクロオオカミの他、コアラやウォンバットといったどう考えても無害な動物までもが「オーストラリアの有袋類は原始的=劣っている=悪=滅ぼすべき」の考えで大量虐殺された…
やっぱりクズだね。
あと戦後になってもでも「ウサギ狩りがしたい」という理由で持ち込んだウサギが増えすぎて困るというのでウイルス兵器で皆殺しにしようとしてたね。
最もこっちは適者生存の原理が働いてウイルスに弱いウサギだけ死んで、生き残ったウサギだけが交配して病気に強いスーパーウサギが誕生してもっと増えたらしいけどw
それと奥地のアボリジニ居住地は失業者や文盲でいっぱいで、場所によってはリアルマッドマックス状態でヒャッハーだから観光地化された場所以外は自己責任で。
金の力は阿弥陀様で悪人正機つまりビクトリージャスティス
返信削除アメリカも似たような感じダシナー
返信削除2歳児でも母や姉を射殺できる、自由の国アメリカ。
削除ああ、なんてすばらしい理想郷なんだ(棒読み)。
まっ、そもそも白人以外は同じ人類だろうかって、
返信削除本気で議論してたような連中ですし。
ところで仮にホモサピエンス以外の人類が発見された場合、
彼らの人権ってどうなるんでしょうね。
生存権はともかく、選挙権とか意味あるんだろうか?
実は白人はネアンデルタール人と、黄色人種とアボリジニはデニソワ人と、それぞれ交雑していた痕跡が遺伝子調査でわかっているがもろもろの事情でうやむやに
削除あとどこかの大陸の国の考古学界ではいまだに他地域進化説が支配的で、「自分たちは北京原人の子孫」とかぬかしているそうな。
まあこっちも秩父原人を捏造したので隣の国のことをとやかく言えんがw
ゴッドハンドは有罪。
削除悔い改めて残りの捏造石器をどこに埋めたのかさっさと思い出しなさい。
いくらなんでも、原住民にも選挙権はあるでしょ(たぶん)。
ただ、選挙権は持たせても選挙に行かせない方法なんていくらでもあるし、制度を少しいじるだけで「あっ、お前の投票無効だったわテヘペロ」ってできるからなあ。油断はできない。
人種差別? 嫌ですねえ。政策で個々人の価値観を歪めようなんて、思想の自由に反するじゃないですか(満面の笑み
純粋アフリカ人以外は多かれ少なかれ、まっぶっちゃけ少ないんだけど、
ネアンデルタールの血は混じってるらしい。
身体能力はともかく、知能的には多少は混ざった方がよく働くみたいね。
アメリカ黒人さんや南アフリカはかなり混ざってるだろうし。
もっとも、破滅まっしぐらの経済至上主義現代社会を構築しちゃったのが
我々混ざった方の人達なんだから、実は混ざらない方が良いのかもしれない。