(`・ω・´) ソース
(`・ω・´)
背景
禹は全羅南道務安郡出身で、生家が貧しかったことから海兵隊員を経て1978年に警察官試験に合格。その後京畿道やソウル市内の警察署勤務を経験した後、同郷の先輩の推薦から青瓦台警備担当となるが勤務態度が不良だったことから事件の数ヶ月前に宜寧郡へ左遷の形で転属させられていた。事件発生直前には2ヶ月ほど女性と同棲していたが、結婚資金が無いことから結婚式を挙げることが出来ず二人の関係もあまり好くなかった。
事件
1982年4月26日、警察官である禹は酒に酔って帰宅したところ、同棲していた女性が禹の胸に止まったハエを取るために叩いたことがきっかけとなって口論になり、宜寧警察署宮柳支署(現在の宮柳治安センター)へ戻るなり武器庫に入り込んでウイスキーを多量に飲み泥酔状態となった。そして午後9時30分頃、武器庫からM2カービン銃2丁と実弾180発、手榴弾7発を持ち出した。
禹は、まず警察署の近くにある郵便局に押し入って電話交換手3人をカービン銃で射殺した。その後に路上に飛び出して近隣の5つの集落の家々を次々に回り、手当たり次第に家人に対してカービン銃を乱射し、また閉店前の市場など人の集まる場所に手榴弾を投げ込み、爆発で驚いて表へ飛び出してきた人達に対してカービン銃を乱射して次々と村人を射殺した。
結局、禹は翌日の午前2時頃まで付近一帯をカービン銃を乱射して回り、虐殺の限りを尽くして5集落合計56名の人々を殺害した。
禹がまず最初に郵便局に押し入って電話交換手をカービン銃で射殺したのは外部との連絡を絶つ為であり、これにより、この無差別大量殺人の一報が外部に伝わったのは、事件発生後1時間以上も経った午後10時40分だった。そして武装警官が被害の発生した現場へ到着したのは、さらに遅れて午後11時50分頃となったが、この時には既に禹は付近の集落での殺人をほぼ終えた後であり、警察の対応は完全に後手に回ったかたちとなってしまった。
武装警察隊が到着したのち禹は武装警官により山に追い込まれた。日付が変わって4月27日午前5時30分頃、禹は残りの手榴弾2発の安全ピンを抜くと、最後の犠牲者となった人質3名を抱きかかえて自爆した。
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ことわざ (`・ω・´)貧すれば虐殺する
返信削除この手の連中って道連れを増やせば、
返信削除地獄で牢名主にでもなれるとかって、
そう言う信心とかでもあるのかねえ。
犯罪者(´・ω・`)一人で死ぬのは寂しいよう
削除あえて過激な意見を述べさせて貰うが、道連れにすべき人間は他にいるだろうに・・・
削除まぁ、そこまで考えられるなら、そもそも、こんな大事件は起こさないか。
何処の国にも偶におるなこういう奴。
返信削除割と行動が似通ってる点も不思議だわ。
何よりも酷いのが、いくら警察だからと言って武器庫に酔っ払いが入って大量の武器を持ち出したにもかかわらず警察署内で止められなかったってことだ
返信削除武器庫に警備員所か監視カメラすらなかったのか?誰か止めていればこんなことにならなかっただろうに
A「署内でなんか怪しいの見つけたが…」
削除B「監視カメラに怪しいやつが映ってる見つけたが…」
etc
ALL(((…自分に責任降りかかってくるのは嫌だから見なかったことにしよう!)))
どうせこんなん。
ちゅーか、何と言うか、新聞の見出しから活字体からレイアウトまで何から何まで日本と似てるな。
返信削除いい加減日本が嫌いならこういう所から直したらいいのに。どうせ植民地時代ガーって呪文を唱えだすんだろ。
津山三十人殺しにそっくりだけど、殺傷能力と冷酷非情さにおいて、こっちの方が上だね
返信削除個人的には華城連続殺人事件の方が怖かった