(´・ω・`)・ω・`) 阿房宮(あぼうきゅう)は、秦の始皇帝が建てた大宮殿である。咸陽とは渭水をはさんで隣に位置していた。遺跡は、陝西省西安市西方13kmの阿房村に残っている。始皇帝の死後も工事が続いたが、秦の滅亡によって未完のままで終わった。名称がなかったのを、世人が地名にちなんで阿房宮と呼んだ。[要検証
–
ノート]阿房宮の増設により国を疲弊させたことから、阿呆(あほう、アホ)の語源であるという説が言われているが、その信憑性は疑問視されている。
始皇帝が即位すると、孝公が建てた咸陽の宮殿は狭小であるとして、渭水の南にあたる上林苑に新たな宮殿を建てる計画を立てた。阿房の地に前殿を造ろうとしたが、始皇帝の生前には完成しなかった。
『史記』によると、前殿建築物の規模は東西五百歩つまり3,000尺・南北五十丈つまり500尺という。なお、メートル法に換算すると、乗数に諸説があるため東西600-800m・南北113-150mなどの幅がある。
その殿上には1万人が座ることができ、殿下には高さ5丈の旗を立てることができた。殿外には柵木を立て、廊下を作り、これを周馳せしめ、南山にいたることができ、複道を作って阿房から渭水を渡り咸陽の宮殿に連結した。これは、天極星中の閣道なる星が天漢、すなわち天の川を渡って、営室星にいたるのにかたどったものである。その建築に任じた刑徒の数は70余万に昇った。なおも諸宮を造り、関中に300、関外に400余、咸陽付近100里内に建てた宮殿は270に達した。このために民家3万戸を驪邑に、5万戸を雲陽にそれぞれ移住せしめた。各6国の宮殿を摹造し、6国の妃嬪媵嬙を尽くこれに配し、秦の宮殿を造って秦の佳麗をこれに充てた。そこで、趙の肥、燕の痩、呉の姫、越の女などそれぞれ美を競って朝歌夜絃、「三十六宮渾べてこれ春」の光景をここに現出せしめた。唐代詩人の杜牧「阿房宮賦」に詠われたのは、必ずしも誇張では
|
脅威の排除と思えば、そんなに悪い策じゃない気もする。
返信削除略奪される方が秩序が保てず、総合的には被害が甚大だしな。
騎馬民族(´・ω・`)壁の心理的な威圧感!
削除侵略しようとすると、中国の歴代王朝が支援している騎馬民族に攻撃される。
逃げ帰る際、退路を遮断されて辛すぎるどん
最初の頃はせいぜい高さ2m、幅4〜5mぐらいの馬が乗り越えられなくする
削除塀みたいなもんだったらしいけどね
搾取自体は否定しないが、パルメさんは異民族の脅威を絶対に甘く見てると思う。
削除三国志終わった後、異民族に半ば乗っ取られかけたんやで?
異民族の襲撃は追っ払っても追っ払ってもきりがない。
削除不動産を持たずに身軽な騎馬遊牧民族は何百キロでも何千キロでも平気で逃げるし。
騎馬遊牧民族が立ち去った後には寂しい草原があるだけで何も残されていないので、追い払う甲斐もない。
農耕民族である漢民族は土地を離れられないので遠隔地に逃げ去った騎馬遊牧民族を追撃することも難しい。
そして騎馬遊牧民族の土地を手に入れてもその土地は農耕に適さないので漢民族は生きて行くことができない。
結局、漢民族は大軍勢を動かしても農民が疲弊し、土地が荒れるだけで何も見返りがない。一時の安寧が得られても、恒久化しない。
王朝が腐敗し、税金が集まらなくなって、兵士に給料を払えなくなると国境警備がおろそかになってしまう。
誰も守らないのでは万里の長城も機能しない。
そうした漢民族の王朝の様子を騎馬遊牧民族は密かに窺っていて、勢力が衰えたと見ると遠方に立ち去ったはずの騎馬遊牧民族がいつの間にか、元に戻ってきてしまう。
また襲撃、略奪の機会を窺うようになって戦争して、
新王朝の歴史や英知が異民族の侵略でいったんリセットして国を作りなおしての繰り返し。
基本中国の歴史って異民族が襲来→独裁→腐敗→革命→異民族対策の歴史。
灌漑しても農耕できないような地域だったんだろうね・・・
削除こうなったら、塩や毒、撒いて土壌汚染して草も生えないような土地にして防衛線築くぐらいしかないかな。
ここはイギリス方式で、天然痘毛布をプレゼントとかどうだろ?
天高く、馬肥ゆる秋
削除もともとの意味は、秋の収穫を狙って馬に乗ったヤツらが来るから気をつけろって意味らしい。
今でこそ十数億とかの人口がいるが、歴史的には中華には数億程度しか人はいなかった。
爆発的に増え始めるのは、明清期のトウモロコシ・ジャガイモが入ってきたからだし。
分散しているうえに連携のとれない集落群では、遊牧民のいい狩場だったんだろうなぁと。
天高く
削除日本では実感ないから意味が変わるのは仕方ないよね。
期日に間に合わなかったら、どっちみち殺されるから、イチかバチか反乱起こしたる!っていう陳勝・呉広の乱もフィクションだったら、お粗末すぎるストーリーって言われそうやな。
返信削除蒼天航路で己の限界を定めた愚かの象徴的なこと曹操が言ってた覚えがあるな
返信削除まぁ、5000kmもの城壁を築く金と人員があるならもっと別の手段あったんじゃねとは思わないでもないけども
つっても、侵略ルートに要塞いくつか立てて軍を配備してってなると横領と賄賂とサボりで酷いことになるのが中国クオリティだから壁作っちまった方がいいのかな
>つっても、侵略ルートに要塞いくつか立てて軍を配備してってなると横領と賄賂とサボりで酷いことになるのが中国クオリティだから壁作っちまった方がいいのかな
削除(´・ω・`)難攻不落の要塞が、腐敗で簡単に陥落したりするだけに・・・・本当どうすればいいんだ・・・
パルメや。現在の長城は元々始皇帝以前からあったものを増築してできたものを、歴代の王朝が増築(大部分は明時代)し続けて結果的に生まれたものであって、全てを始皇帝が作ったわけではないぞなもし。
削除(´・ω・`)それを理解しているから、5000キロと書いたんじゃよ。
削除万里の長城 (´・ω・`)現在は2万キロの長さだ!
始皇帝が作ったのは臨?から襄平までの約1500kmだけやで?
削除(´・ω・`)間違った資料を読んで、記憶した結果がこの有様だよ・・・
削除まぁ1500kmでもすごくて搾取が酷いってのは語れるから気にするなw
削除(´・ω・`)ゆわわーい
削除その昔にはピラミッドが搾取と強制労働の象徴扱いされていた時代があったんだよ
返信削除ピラミッド建設はエジプト国民救済のための公共事業という研究結果が出てきて
今じゃ笑い話にしかならんけど
(´・ω・`)エジプトの場合、左右が死の砂漠で、大軍がやってこない+ 農民が逃げられないから、おとなしく税金払うしかないという事もあり、国を纏めやすかったんだと思う。
削除アスワンにある石切り場では「国王万歳」「仕事が終わったらパンを腹いっぱい食べよう」など、
削除当時の農民たちの落書きが見つかっていますし。
欠席届に使われた石版も見つかっており、理由があれば休んでいいということもわかりますしね。
文明レベルはともかく精神的豊かさではヘタすれば現代よりも充実した社会だったかもね。
欠勤理由に二日酔いが通じていたって事実だけで現代よりホワイトな職場だと思うよ
削除古代エジプトって教育もかなりシステマティックだったようだし以前の奴隷社会ってイメージはほとんど誤解だったようだね
現代の暦では、1週間は7日です。しかし古代のエジプトでは、1週間は10日。
削除1か月は3週間、つまり30日。それが12か月で360日。
ちなみに円の1周360度というのはここから来ている。
もちろん1年が365日。
では、残りの5日間はどうしたかというと、ざっくばらんにいえば、
年末にみんなでドンチャン騒ぎをして過ごしていました。
当時の農民や職人といった、いわゆる庶民といわれる人たちがビールを口にできるのは、
ふつう1週間に1回でした。つまり10日に1回。
ところが、ピラミッドづくりに参加すると、毎日ビールが飲める。
というのも、ピラミッドづくりに働いた人に対しては、
その報酬としてビールが与えられていた。
ピラミッド建造には奴隷ではなく一般庶民が、
ビールが飲めるから自ら喜んで参加していたというのが事実だった模様。