★マリッツァ河畔の戦い 1385年
セルビア軍5万人VS オスマン軍800。セルビア軍が大敗した。
+ その数年後、たった1人の死んだ振りしたセルビア人兵士が、オスマン帝国のスルタン【ムラト1世】暗殺して逆転。
どっちも油断しすぎて酷い事になってる。
※20世紀の時代で、第一次世界大戦が起きる原因を作ったサラエボ事件と深い関連がある。
オスマン帝国軍(´・ω・`)世界帝国【ビザンツ帝国】をフルボッコにして、都市国家に転落させてやったわー。
でも、反乱が起こったから、そっちを鎮圧するために主力軍を投入してくるー
セルビア軍5万(´・ω・`)今がチャンスだ!
オスマン帝国の首都を攻撃!
オスマン帝国軍800(´・ω・`)首都に800の兵力しかないよ!?
絶望的すぎる!?
セルビア軍5万(´・ω・`)よし!
勝ち戦だから、酒飲みまくって祝宴してくる!
皆ー、ベロンベロンになるまで酒を飲むぞー!
オスマン帝国軍800(´・ω・`)アホか!
俺のターン!
酔いつぶれたセルビア軍を攻撃!
5万の軍勢を壊滅させる!
セルビア軍5万(´・ω・`)わ、わらがらないよおおおおおおお!!!
国王とか指導者層がたくさん殺されてわがらないいいい!!!
王朝が断絶しちゃったああああああああああああああああああああ!!!!
オスマン帝国軍800(´・ω・`)俺達の勝利だ!
●その後、オスマン帝国のムラト1世も、死体の山見て満足してたら、死んだ振りしたセルビア兵に殺害されて人生終了。
セルビアの国恥記念日となり、6世紀後、オーストリア帝国の皇子が、この記念日にやってきたからセルビア人が激怒して皇子を暗殺、第一次世界大戦発生。
●日露戦争はこっちを参照
勝率ほぼ0%でも、運が良ければ勝てる【日露戦争
20世紀】
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今川義元(´・ω・`)
返信削除サファーヴィ朝(´・ω・`)
今川義元は別に油断も慢心もしていなかったはずですが。
削除無能どころか、徳川家康も評価するほどの有能ですよ。
無能ではなかったにせよ油断はあっただろ
削除じゃなきゃあんな所に陣張ったりしないよ
史実の今川義元(´・ω・`)運が悪かったよう
削除創作で改変された有名な今川義元(´・ω・`)勝ち戦の前に、酒を飲むぞー!
(´・ω・`)二つが頭の中でゴッチャゴッチャになったよう
信長公記とか読むと一か八かの大ばくちに勝ったみたいな記述になってるけどな。
削除義元も必死に逃げようとして、馬を奪われ飛び捕まれても相手の指かみ切ったり死ぬまで抵抗してるのが良く解る。
少々長文になるけど失礼、こんな長文見たくないだろjkというひとは↓のまとめから読むとよろしい。
削除一般的に知られる信長の奇襲による勝利の話は雨と霧に隠れるようにして今川軍に気づかれないように背後に回り、本陣を急襲するこれを便宜上「迂回急襲説」と呼ぶ、この迂回急襲説を記してあるのが、小瀬甫庵の『信長記』。
『信長記』(しんちょうき)は江戸時代、1622年ごろに出版されたどちらかというと創作の要素が強い。
一方、大田牛一の記した『信長公記』の場合は、甫庵とは異なることが記されてある。
こちらは実際に信長公に仕えていたことがあるので自分の見たことや聞いたことを集めて 客観的に書いたのが『信長公記』(しんちょうこうき) 信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛する前までを首巻とし、上洛(永禄11年(1568年))から本能寺の変(天正10年(1582年))まで15年の記録を1年1巻とし、全16巻(16冊)にまとめている。写本がたくさんありこちらのほうが歴史的記録資料としてみられる。
『信長公記』首巻よると
今川勢が4万5千人の兵力で攻め寄せた。佐々隼人らの部隊が壊滅すると、清州城にいた信長は腹心らが止めるのを振り切って前線の善照寺砦に向かった。
そして軍勢をそのまま向かってくる今川勢の前軍に攻めかかるよう指示を出した。
大雨が降りだしたので、雨が止んだ後、今川の前軍に正面から攻めかかった。
すると、今川勢は崩れはじめ、信長は勢いに乗じてそのまま攻め続けた。
戦いは義元のいる本陣まで及んだ。
義元の周りは300騎ほどの旗本に守られながら退却をはじめたが、やがて50騎まで減らされ、
最後には義元は討ち取られてしまった。
これを「正面攻撃説」と呼ぶ。
んで、「迂回急襲説」が長らく定説になっていたのはじつは帝国陸軍が関係してたらしい。
陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史・桶狭間役』では小瀬甫庵の『信長記』を参考にして
「迂回急襲説」を採られて書かれていた。
つまり、「迂回急襲説」にお墨付きを与えてしまったということ。
そして、戦後も歴史学者たちがこの日本戦史を参考にしたおかげで、
小説など創作物では桶狭間の戦いを「迂回急襲説」の通りに戦う信長像ができあがった。
そのモデルとなった肝心の『信長記』だけど、成立も江戸時代初期、『信長公記』を参考に書かれているが、小瀬甫庵の脚色が多く、資料としては小説程度の信頼性しかない。
現在では、甫庵の『信長記』よりも資料の信頼度で上であるということから、『信長公記』の正面攻撃説の方を 多く肯定的にとらえられている。
・・・・・・しかし、正面攻撃説にも問題がないこともない、この説では、戦った今川勢が弱すぎることになる。
従来の説では今川の軍勢は、およそ2万〜6万人とされている。
また、桶狭間に布陣した今川義元は、本陣の前に軍を置いて備えとしてある。
つまり、油断や慢心から虚を突かれて敗れたにしては状況が難しい。
それなのに、どうやって2千程度の信長軍が勝てたのか? これが一点。
次に、『信長公記』では桶狭間に関する記述の信頼性について。
どういうことかと言うと、 年代の記述が『天文二十二年(1552年)』と記されていること。
天文二十二年は、信長の父親である織田信秀が亡くなってが織田家を継いだ年。
『信長公記』の桶狭間に関する記述は、首巻にのみ記されており、
これは牛一本人による記述ではなく写本であることが研究により判明した。
なので、『信長公記』の桶狭間の戦いの記述が1552年説は誤り。
このことから、『信長公記』における桶狭間の記述を全面的に信頼することができなくなったわけ。
まとめ
雨の中迂回して本陣に攻め込む「迂回急襲説」は資料の価値が低い
『信長記』が元なので信頼性に乏しい。
しかし、『信長公記』も全面的に信頼できないので「正面攻撃説」も正しいとは言えない。
今川勢が兵力が大きいという認識だったが、織田勢も同程度の戦力はあったのでは?
結論
現段階では今川義元が負けた理由がいまいちわからないので、今川義元を例にあげるのはやめたほうが無難ぽいね(´・ω・`)
これは、パルメさんに責任とって貰う形で
削除当時の今川軍の侵攻路、信長軍の迎撃配置、行軍路、
周辺図を用意して貰って、検証コーナーを作ってもらうしかないよ!
体が一つしかないなら分身しても良いよ!
あっ、ごっそり「今川勢が兵力が大きいという認識だったが、織田勢も同程度の戦力はあったのでは?」の部分が抜けてたので追加補足(´・ω・`)
削除信長記も信長公記も両方が信憑性は薄いが勝ったのは事実、じゃあ何で勝ったのかというと信長勢の兵力は実は多かったんじゃないかという説があるんよ。
根拠はまず江戸時代の駿河・遠江・三河の米の生産石高は合計で70万石ほど。
一方、尾張一国で57〜59万石。ここからみても、両者の経済基盤はだいたい互角。
さらに、信長の場合は金銭収入も莫大だった。
当時、織田家は伊勢湾に面した港湾都市である津島などを支配下においており、
伊勢半島や三河半島へ行き来する船便に手数料を徴収していた。
領内での安全保障と権利確認を記した朱印状の発行のために徴収した手数料、これを「判銭」といった。
これは献金である場合もある。
この伊勢湾水運による収益は莫大な利益を織田家にもたしており信長の父親である織田信秀の時代に、朝廷に数千貫もの大金を惜しみなく献金している。
また、神社仏閣の修理費用として、五千貫を寺に寄付したことを『多聞院日記』に記されてある
※『多聞院日記』は三代にわたって書き続けられた日記。
奈良の興福寺にある多聞院の院主で多聞院英俊の書き記した期間は1534年から1598年まで残っており、当時の近畿地方の情勢も知ることができる第一級史料。
なので、桶狭間でも織田勢の軍勢は、二千というのは信長の寄騎(有力武将(寄親)に対する在地土豪)であり、実際はもっと多かったのではという説がある。
織田家は近隣から援軍を得ていたという記述が『桶狭間合戦記』にある。
この内容では、将軍足利義輝から許可を得て、近江の戦国大名六角氏に援軍を依頼した、とのこと。
また、近隣に援軍を派遣してもらったので軍勢が増えた、と書いてある。
他にも、『甲陽軍鑑』『松平記』には、乱取り、つまり雑兵による敵地での強奪の最中だったから
今川勢の数が少なかったのかもしれない、という説もある。
なので信長が今川義元と戦った時そもそもの兵力表記が違ったんじゃないという説があるのさ
つまり今川義元は圧倒的戦力を持って油断ぶっこいてたわけでも運が悪かったわけでもなく普通に負けた可能性があるということ(´・ω・`)
ふむ。またいろいろな説が出てるんだな。
返信削除自分の認識だと、今川側が公称4万、実数2.5〜1.5万。
支隊があるから本体は5千程度。
織田側は尾張一国を押さえてる訳じゃないから総動員力8千程度で、
これも集中しきれないから実際に動かせるのが4千程度。
で、実際に攻撃に参加したのが2〜3千程度。
1対2程度なら地元で土地勘もあるし、情報も得やすい、
主導権を握り続ければ圧倒するあり得なくはない。
人事を尽くして勝率を50%程度にまで上げて、
後は運に恵まれて勝ったって認識だった。
そこで、パルメさん登場です。
削除パルメ測量事務所が戦国時代にワープ
ワープした場所が、織田信長の城下町の清州だったので、
木下藤吉郎秀吉の下で、清州の町の絵図をちまちま作っていたが、
織田信長 (´・ω・`) 桶狭間周辺の絵図を作れ!!!
パルメ(´・ω・`) 桶狭間キター
…というのは。 タイトルは 「パルメ戦国測量隊」
(信長´・ω・`) 俺の軍勢が、迷わずに現地まで行った秘密が明らかに!
削除少兵力で敵地奥深くにまで入り込んだのなら無謀。
返信削除相手の動員力を見誤っていたのなら情報不足。
油断もしてないのに正面決戦で負けたのなら、(相対的には)無能。
油断してたのなら慢心。
まあ、なにかの原因(複合かも)が無ければ戦争で負けません。
攻められる場合は最初からすべてが絶望的だったりするけど、
自分が仕掛けて負けるのには、戦力以外の原因有り。
実際は敗北するか否かは戦術じゃなくてその前の戦略の段階にある、英雄譚に出てくる戦略をひっくり返す英雄を自軍に入れているのも人材による戦力強化だし、無能な指揮官を据えるというのも戦略を怠っているといえるやはり戦いは戦うその前の準備で決まるものなんでしょうね。
削除勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし
削除戦争は結局これに尽きる気がする。
どんなに準備しようとも勝てるかどうかは判らないけどちゃんと準備していなかったら確実に負ける。
英雄っていうのは何か見えない物が見えちゃった(もしくはギャンブルで良い目を引き続けた)人達なんだろうね
敵より大兵力を用意し補給も整える。
削除そうすればよほどのことがない限り勝てる。
って言うのは確かに真実なんだけど、
大兵力になればそれだけ補給が難しい、
組織が成ってないと統制がとりにくい。
寄せ集めの場合が多く受けに回ると弱い、
俺たちが頑張らなくてもと言う依存心が出てくる。
優位なはずなのに負けかけるとパニックになる。
戦場によっては動きが取れない。
集結に時間がかかるとか、分裂して行軍せざる得ない。
等、いくつかの罠があり、大兵力を生かし切れない、
むしろ足かせになる場合もある。
圧倒的大兵力で負けるのはこの手の場合なんだろう。
ただ単純に大兵力を集めれば良いってもんでもない。
扱える限度を超えると足手まといだったり。
戦国時代だと他に沖田畷の戦いと厳島の戦いもあるね
返信削除実はけっこう強敵で、取り巻く情勢も悪いのに何かを勘違いして
返信削除相手を舐めきってかかる奴は結構多いし、そん時は絶対ボロ負けする。
テンプレとしてはこっちがいいと思う。
トンカッツ提督さん、30倍じゃなく60倍じゃね?
返信削除(´・ω・`)頭の中で暗算した結果がこの有様だよ!
削除ミッドウェーはちょっと違うか
返信削除